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【コラム】昭和39年「新潟地震」の遺構を訪ねて

2017年9月20日。新潟大学における博士号学位授与式典の日。いくつかある新潟地震の遺構のうち2か所を訪問したので簡単に備忘録を残す。

 

 

新潟地震

 

1964(昭和39)年6月16日午後1時1分に発生した、新潟県沖を震源とするM7.5の巨大地震。新潟県と山形県が大打撃を受け、被害は9県に及んだ。死者26名。全壊1960、半壊6640、全焼290、床上浸水9474、床上浸水5823、一部破損67825という被害を齎した(宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧599-2012」)。

 

100基以上の石油コンビナートが火災延焼。12日間燃え続けた。火災は新潟の空を黒煙で覆い、昼間でも真っ暗であったという(ウェブ検索すれば巨大な黒煙の写真がいくつも閲覧できる)。日本の歴史上でも最大の石油コンビナート災害として記録された。

 

火災の原因の一つが、新潟市街や工業地帯など広範囲に及んだ液状化被害(当時は流砂被害と言われていた)である。この地震により液状化被害が公式に観測・認知され、以後の土地整備・地震対策・まちづくりにも教訓とされた。

 

新潟地震を契機に議論が進み、1966年には地震保険制度が誕生するに至る。

 

駅前楽天地の傾いた建物

 

地震と液状化の影響を受けた建物は数多い。その中で誰でも訪れることができる場所が「駅前楽天地」。新潟駅万代口から徒歩5分ほどの昭和が残る飲み屋街。新潟の知人曰く、今でこそ楽天地の建物は酔っぱらって曲がって見える、などと冗談を言われるようである。しかし、液状化被害や地震の生々しい爪痕を現代に伝える遺構だったのだ。楽天地に続く細い路地も地盤沈下しているように見える。

 

 

 

 

 

昭和大橋の曲がった橋脚

 

当時完成したばかりだった、信濃川にかかる昭和大橋は、地震により大崩落。いまでも当時の橋脚のうち2本は見つかっていない。川底の地盤に沈下してしまったとも言われている。再建のときには地震前の橋脚が再利用されている。地震で曲がってしまった橋脚の位置が遠くからでも良くわかる。橋の北側の岸辺に立ち、橋の裏側から橋脚の列を眺めると、本来なら整然とまっすぐ連なるはずの橋脚が途中からずれてしまっているのがはっきりと確認できる。

 

 

 

 

新潟日報が新潟地震50年(2014年)の企画で新潟地震の遺構をめぐる記事を多く書いているようだ。温故知新。遺構マップの作成や、各所への説明板の作成(特に昭和大橋橋脚など)も積極的に行えないだろうか。時期を見て改めて調査してみたい。