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【コラム】「絵金」が導く安政大地震の「懲毖」。伝えるのは「油断大敵」

 

波乱万丈、町絵師「絵金」

 

司馬遼太郎が主人公にして文庫本全7巻くらいの歴史小説にし、NHK大河ドラマにしてもなお余りある魅力的な人物だ。なぜこれほどの歴史人物を知らなかったのか恥じる。大規模な展覧会が行われるのも秒読みではないだろうか。

 

絵師金蔵、つづめて「絵金」(えきん)。幕末から明治維新にかけての1812年~76年に生きた大天才画家。高知城下の髪結いの子に生まれ、江戸で狩野派の前村洞和(とうわ)に師事。十年必須と言われた狩野派の修行だが、3年で免許皆伝に至り、「洞意」(とうい)の号を授かる。土佐に凱旋しては御用絵師「林洞意」として名声を欲しいままにする。画塾には武市半平太も通っていた。

 

ところが、贋作の疑いをかけられ追放。ほとんどの作品も焼却処分されてしまい、歴史の舞台から姿を消す。

 

その後しばらく消息不明となるが、現在の香南市赤岡町にて、「弘瀬」の姓を名乗り、町絵師となっていた。町に溶け込み、北斎漫画のようなエロス、ユーモア、恐怖、奇々怪々、そして豊かな色彩で一度見たものをたちまち魅了する自由な絵を残しはじめる。なかでも代表作は現存するのは23枚しかない歌舞伎芝居絵の「屏風絵」。ほとんどが私蔵品であり、年に一度の祭の日にだけ、薄明かりとともに街並みに展示される。晩年の葛飾北斎を彷彿とさせる自由な町の絵師。われらが「絵金」は復活したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

日本一小さい町「高知県赤岡町」の「絵金蔵」

市町村大合併の2006年までは日本一小さい町「赤岡町」として、魅力的な街づくりを行ってきた。合併直前ころにできたのが「絵金蔵」(えきんぐら)。かつての町の中心街だった赤岡の米蔵をベースに絵金が残した屏風絵を保存している。本物は「穴」から覗いてみる仕掛け。全部を直接見るためには夏の祭りの日を訪れるしかない。

 

ガラスケースに別の大きな絵が展示されていた。色彩、構図、線のタッチ。鳥山明も、尾田栄一郎も、荒木飛呂彦ですら、これほどの扉絵は描けまいというほどの大迫力の一枚絵。

 

絵金蔵の詳細は他のサイトに譲るが、博物館内の展示で私の目を引いたのは、ごく一部が写真パネルで紹介されていたにすぎなかった『土佐震災図絵』と『絵本大変記』である。このパネルとの出会いが、今回のコラム執筆に至る「碑石」へ導くことになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

安政南海大地震と絵金

嘉永7年11月5日(1854年12月24日)。南海トラフ巨大地震のひとつ「安政南海大地震」が発生。死者は1万8000人ともいわれる。この32時間前には「安政東海大地震」も発生している。ちなみに翌年安政2年には、江戸を大規模崩壊させる「安政大地震」が発生している。

 

町絵師となった「絵金」は、絵筆をもちだし、町の様子を記録したという。人から伝え聞いた想像ではなく、自ら描写して地震被害を記録したのである。それが『土佐地震絵図』『絵本大変記』として残る。

 

『土佐地震絵図』は高知県佐川町教育委員会所蔵だという。いつか本物を見てみたいと思う。

 

『絵本大変記』は高知県立図書館所蔵。オーテピアのデジタルアーカイブになっている。

 

 

 

 

 

絵金蔵から「懲毖」へ

今回、絵金蔵の見学を手配してくれた香南市役所の方から、絵金蔵の澤田美枝館長をご紹介いただき、ご挨拶。素晴らしい展示の御礼を館長に述べ、学芸員の皆様からは絵金と災害の関係についていろいろと伺うことができた。

 

学芸員の方は『南海地震の碑を訪ねて 石碑・古文書に残る津波の恐怖』(毎日新聞社高知支局・2002年11月発行)の記事から、絵金蔵のすぐ近くにある「安政南海大地震」の石碑「懲毖」(ちょう・ひ。「ひ」は、「比」の下に「必」)の場所を紹介してくれた。「絵金」が描写した災害の石碑だ。早速ご同行いただいて、香南市職員の方と車で数百メートル先の「岸本飛鳥神社」に向かう。

 

なお道すがら絵金蔵運営委員会の浜田義隆会長ともご挨拶。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「懲毖」、その異形が伝える無言の迫力と恐怖

岸本飛鳥神社の境内の端、道路に面して正面がある巨大な石碑。安政5年に建立。

 

その名も「懲毖」(ちょうひ)。

 

懲りて、慎む。という意味がある。

 

異形の自然石に、そのまま文字を彫り込む。怨念のようでもあり、苦行のようでもあり、そして死者への真摯な弔いでもある。あまりの異形にて、正面をみるだけは文字も読めないほど。でこぼこの側面にもびっしりと文字が刻まれる。詳細は、先の毎日新聞社の書籍に記述されている。

 

 

『諺に油断大敵とハ深意あることにて…』

 

という言葉で彫り始められている。

 

後半には

 

『今の人、嘉永の變(変)を昔はなしの如くおもひて 既に油断の大敵にあいぬさるによりて…』

 

などとも彫られている。

 

高知県出身の寺田寅彦の「天災は忘れたる頃来る」に通じる原点を見た思い。石碑建立は大地震から5年以内のことなので、教訓や記憶の風化が早いのは今も昔も変わらないということが良く伝わる。